事務所便り

カテゴリ:日々の雑感

沈黙の春

| 2021年5月11日

大阪府立中之島図書館の桜(遠景は裁判所)

 

「沈黙の春」とは、1962年にアメリカで出版された生物学者レイチェル・カーソンの著作の題名です。カーソンは、この著作の中で、農薬で利用されている化学物質の危険性をとりあげ、それらによって鳥たちも鳴かない「沈黙の春」がおとずれると世に警告しました。しかし、今、世界は、農薬ではなくウイルスによって、鳥ではなく人間が押し黙る二度目の「沈黙の春」を迎えています。

日本では昨年1月に始まった新型コロナウィルスの感染拡大は、2年目に入った今も勢いはおとろえず、第三波が収まったと思ったらもう第四波の兆しが見られる状況です(4月12日現在)。

この自然からの侵襲に人間はなすすべもなく、1年目の昨春は、飲酒を伴う花見は各地で禁止となり、春の選抜高校野球は中止、プロ野球も開幕が6月にずれ込みました。

2年目の今春は、花見の禁止は変わらないものの、高校野球は予定通り開かれ、プロ野球も3月26日には両リーグとも開幕するなど、この歓迎されざる自然からの侵襲とのつきあいにも少しは慣れてきたように思います。

それでも、多人数が集まったり、懇親会を開いたり、孫が祖父母に会いに行ったりなど、これまで普通に行われていたことができないもどかしい状況は続いています。もしコロナの感染拡大に意味があるとすれば、そんな何でもない人の営みがかけがえのないものであることを我々に教えてくれたことくらいでしょう。

しかし、それももう十分です。ようやく始まったワクチン摂取の効果が出て、我々の生活が平常に戻ることを願ってやみません。それまで、皆様、お健やかにお過ごしください。

(ニュースレター2021年春号より)

井奥圭介

コロナと裁判

| 2021年1月19日

 

皆様 明けましておめでとうございます。今年が皆様にとりまして良い一年となりますことを心よりお祈り申しあげます。

 さて、日本の裁判にもっとITを導入すべきであるという意見は、実は、今のコロナ騒ぎが起きる前からありました。これまで、日本の裁判は、裁判所に原告と被告双方が出頭し面つきあわせてやりとりをするのが原則とされ、遠方の裁判所の場合などに例外的に電話会議が認められる程度でした。しかし、SNSが普通に利用されている現代にこれではあまりにも時代遅れだということで、Teamsなどのインターネットによる通信手段を利用して、例えば弁護士事務所にいながら裁判に参加する、場合によっては証人尋問をするようなことまで認めるべきだという意見が叫ばれていたのです。

 一方、そのようにIT化を進めるべきであるという意見に対しては、公開の法廷で裁判を受ける権利を保障した憲法に違反するとか、証人の顔を直接見もしないような尋問では正しい事実認定はできないといった根強い反対意見もありました。

 しかし、昨年にコロナ騒ぎが起きてからは、感染防止の必要から、裁判所が当事者になるべく裁判所に来ないように指示し、裁判の進行に関する打合せを電話会議で済ませることが多くなりました。また、我々弁護士も、弁護士同士の会議や依頼者との打合せなどをオンラインで行う機会が増えました。そのような体験をふまえての私の率直な感想は、今の程度であれば電話会議やオンラインでもさほど不都合はなく、かなりのことができそうだということです。

 しかし、これがもっと事態が進み、証人尋問までもオンラインで行い、裁判官にも相手方の弁護士にも一度も会わないままに裁判が終わってしまうというようなことになればどうなのか、それが果たして裁判と言えるのか、疑問はぬぐえません。

 「必要が制度を変える」と言われますが、コロナが日本の裁判をどこまで変えるのか、注意深く見守っていきたいと思います。(弁護士 井奥圭介)

(ニュースレター2021年新年号より)

井奥圭介

新年ご挨拶

| 2021年1月18日

東大寺大仏殿

明けましておめでとうございます。新しい年を迎え、所員一同今年も心を新たに仕事に取り組みたいと念じています。どうかよろしくお願い申し上げます。

 さて、過ぐる年は、新型コロナウィルスの全世界への感染拡大による社会・経済・生活への計り知れない被害をもたらした1年でした。そしてその勢いは今なお収束どころか増大の一途を辿っています。今年は、コロナ対人類の対決をどのように決着させるかという重大な年になりそうです。14世紀中頃ヨーロッパで猛威を振るい約2500万人もの死者を出したという黒死病(ペスト)の大流行や、約1世紀前の全世界の死者5000万人というスペイン風邪の蔓延の例を繰り返すことのないよう願い、市民としてなすべきことを果たさねばと思います。

 そして国内では、コロナ騒動の渦中で菅内閣が安倍政権を引き継ぎました。良い仕事をしてくれることを期待したいものですが、その菅政権の最初の仕事が、学術会議の推薦名簿から政府の施策に批判的な6名の学者の任命拒否であったことは驚きと公憤を禁じ得ませんでした。組織改革の必要性に関しては種々議論があるものの、任命拒否の理由について「回答を差し控えます」の繰り返しや論点のすり替えでは、学術会議法違反や「学問の自由」「思想の自由」侵害という民主主義の根幹を蔑ろにするものと言わざるを得ません。「モリ・カケ・桜」問題で権力の私物化を批判された前政権の悪弊をも承継するものであり、法律家の一人として見過ごすことは許されないと痛感しています。

 一方、明るい話題といえば、小職の孫たちも夢中で読んでいるマンガ「鬼滅の刃」ブーム。残念ながら私自身は未読ですが、ノスタルジーあふれる大正時代の鬼退治の話だそうで、マンガも映画も異例の大ヒット、今やコロナ禍で喘ぐ日本経済の救世主とも言われているそうです。一つの事象が社会を動かす好例といえましょうか。

 あれやこれやでこの新年は、試練の年となりそうですが、マスク常用や過密を避け無用の外出自粛などの日常生活の不便に耐えながら、市民の権利を守る職務を誠実に全うしたいと念じています。

二〇二一年 元旦 (弁護士 赤沢敬之)

(ニュースレター2021年新年号より)

赤沢敬之

レタスの夏

| 2020年9月17日

 春先から続くコロナ禍に追い打ちをかけるような梅雨の豪雨災害と、いつになく心落ち着かない夏となりましたが、皆様におかれてはいかがお過ごしでしょうか。

 さて、この事務所ニュース夏号の巻頭言を書くにあたり、ここはやはり、目下、世間の最大の関心事であるコロナに関したことを書くべきではないかとあれこれ思いをめぐらしたのですが、私の文才ではコロナをテーマに皆様にお読みいただくような文章を書くのは無理とあきらめ、代わりに、コロナとは何の関係もない私個人のある夏の思い出を書いてお茶を濁すことをお許しください。

***

 その夏とは、1984年(昭和59年)、私が24歳の年の夏でした。弁護士を目指して大学3年から司法試験を受け始めましたが、在学中に合格することは出来ず、その年の春に大学を卒業し、人生で初めて何の肩書きも持たない浪人の身分になっていました。

 7月下旬に論文試験を受け、10月頭の合格発表まで2か月余りの期間がありましたが、その年も自分としては落ちたと思っていましたので、最後の口述試験に向けての勉強は手につかず、生活費を稼ぐ必要もあって、バイトをすることにしました。そして、その前年に知り合いの受験仲間が福島県の梨農家でバイトをして歓待されたという情報を聞き、それなら私は趣味にしていた山登りの雑誌のバイト広告で見た長野県佐久地方の川上村というところのレタス農家にしようと決め、7月のうちに東京から電車で川上村に向かいました。

***

 当時はまだ国鉄だった小海線の信濃川上という駅で降り、バイト先の農家の人(バイト仲間は「旦那さん」と呼んでいました)に車で迎えに来てもらったのですが、その旦那さんが初めて私を見た時に一瞬顔が曇ったように見え、私は自分が歓迎されていないように感じました。その理由は間もなく分かりました。

 農家に着くと、先に就労していたバイト仲間が5~6人おり、その人たちと一緒の、普段はその農家の小学生の子供の勉強部屋として使われているものと思われる大部屋に通され、そこで寝起きすることになりました。

 そして、翌日からさっそくバイト仕事が始まったのですが、朝5時に起き、朝飯をかっくらってから車に乗せられ、レタス畑に着いたのが6時頃、それからレタスの出荷作業が始まりました。

 私が担当させられたのはレタス切り、つまり、畝に列状に植わっているレタスを包丁で切っていく仕事でした。口で言うとそれだけのことですが、これが実際にやってみると大変。ご存知のように、レタスは中心の葉が球状に固まっている部分が「外葉」という少し開き気味の葉にくるまれているのですが、この外葉が2~3枚残る位置で芯を切らないといけません。この外葉がとれてしまうと、等級が下がってしまうのです。それもマイペースでやればよいというわけではありません。農協の集荷時間が午前10時頃と決まっており、それまでに集荷場に持ち込まないとその日は出荷できなくなりますので、皆、それに間に合わせようと必死で作業をするのです。ゆっくりやっていると、私が切って置いたレタスをダンボール箱に詰める役の農家の奥さんが後ろからどんどん迫ってきて、「遅い!」と怒られます。かといって慌てて切ると、外葉を全部落としてしまい、今度は旦那さんから「等級が下がる」と怒られます。そんな気の抜けない作業が3時間以上続きました。しかも、その間は中腰前屈みの姿勢で立ちっぱなしですから、最後の方は下半身の感覚が無くなりました。

 午前中にレタスの出荷を終えた後は、いったん農家に戻って昼食を食べてから、今度は午後の作業です。レタスの収穫が終わった畑に新たに作物を植えるため、土の上に張った黒色のビニールシートをはがしたり、トラクターで鋤き直した畑に苗を植えたりといった作業が夕方の6時頃まで続きました。高原とは言え、日中は真夏の容赦ない日差しが照りつけ、冷房の効いた大学の図書館で受験勉強しかしていなかった身には、まるで地中のミミズがいきなり炎天下のアスファルトの上に投げ出されたみたいなもので、終わった頃には疲労困憊で立つのもやっとの状態でした。

 そんな作業を必死の思いで2日続けた時点で、私はここは自分のような人間が来るべき場所ではなかったことを悟りました。そして、3日目の作業の休憩時間中に、旦那さんに、「バイトをやめて帰ります」と言おうと決心しました。ところが、どういう訳か、その時に、旦那さんは、買っておいた缶ジュースを皆にふるまってくれたのです。それで、私は、言う機会を逸してしまいました。そして、翌日からもあの過酷な作業に従事する羽目になってしまったのです。

 しかし、人間の体というのはおかしなもので、そんな過酷な作業も、歯を食いしばって一週間ほど続けているうちに、だんだんと体が慣れ、他の人のペースについていけるようになってきました。受験勉強中、体ごなしのため、昼休みに大学のプールで毎日泳いでいたことも少しは役に立ったのかも知れません。

 そして、お盆が近づき、畑を吹く風が少し涼しく感じる頃には、外葉を残して切ることもうまくできるようになり、旦那さんから叱られることも少なくなりました。また、畑で作業しながら遠くに見える八ヶ岳の美しい山容を眺める余裕もでてきました。

バイト仲間とレタス畑で撮った写真。前列左から二人目が筆者。後ろの山は八ヶ岳。

 ところが、その頃から、左手の中指がだんだん腫れてきて、ついには普段の太さの1・5倍くらいまで膨れあがりました。包丁で誤って切った指の傷口から畑の雑菌が入り、化膿したのです。そこで、一日バイトを休み、少し離れた佐久市内の病院に行って指を切開してもらいましたが、切った所に溜まった膿を排出するためのドレーンを差し込まれ、その上を包帯でぐるぐる巻きにされて、レタス切りどころではなくなりました。それで、川上村にいてもしょうがないので、治るまで東京に帰ることにしました。帰る時には旦那さんにそれまで働いた分の給料を精算してもらいましたが、おそらく、旦那さんは、その時、こいつはもうここには戻ってこないだろうと予想していたものと思います。

 しかし、東京に1週間ほどいて傷口がふさがった私は、お盆過ぎに、旦那さんの予想に反してまた川上村にもどり、バイト仕事に復帰しました。そして、結局、高原に朝霜が降りる9月末頃まで働きました。

***

 一緒に働いたバイト仲間には、将来自分で農業経営をすることを目指している同い年の青年や登山家を目指している人など、いろんな人がいましたが、バイトが休みの日には、一緒に奥秩父の金峰山に登ったり、清里の方にドライブに行ったりなど、いい思い出もできました。
 バイトを終えて東京に帰る日の前の晩に、旦那さんに最後の精算をしてもらいましたが、その時に、旦那さんから「井奥さん、あんたが最後まで続くとは思っていなかったよ」と言われたのは、私にとって最高の褒め言葉でした。

 そして、東京に帰る途中、浅間山麓の鬼押出しに寄り、遠く東京の方の空を眺めながら、また始まる1年間の受験生活のことを考えましたが、このバイトに比べたら司法試験の受験生活なんか楽なもんだと思え、闘志が沸いてきました。法務省中庭の司法試験合格発表会場の掲示板に自分の受験番号を発見したのはその2日後のことでした。

 それから36年、弁護士になってからも33年が経ち、仕事の上でつらい状況に立たされることも時にはありましたが、そんな時には川上村のレタス切りバイトのことを思い出し、あれができたんだからこれも何とかなるはずだと心の支えになりました。

 どなたにも、あのことを思えば頑張れるという体験が一つくらいはおありかと思いますが、私の場合のそれをお話しした次第です。

(ニュースレター2020年夏号より)

井奥圭介

新年ご挨拶

| 2020年1月24日

比叡山律院

 明けましておめでとうございます。新年を迎え、所員一同今年も心を新たに仕事に取り組みたいと念じています。どうかよろしくお願い申し上げます。

 さて、昨今の世界的な傾向は、社会の分断化と敵対化、貧富の格差の固定と拡大など人々の平穏で安全な暮らしが脅かされる事態が日々進展しています。それだけでなく地球温暖化による環境問題が自然災害を増幅させる一方、核兵器や原子力発電事故の脅威もいつ人類滅亡の危機を呼び起こすのかと憂慮されます。

 また、国内においても、国民の代表たるべき政権与党が、権力の集中を笠に着て、税金の私物化にとどまらず、公文書の隠匿、廃棄などの所業を繰り返しつつ、軍事力を明記する「憲法改正」の旗を振るなど、平和主義・民主主義・基本的人権の破壊の危惧さえ感じさせられます。
いまや世界全体が地球規模ひいては宇宙規模の憂慮すべき課題に、人類一丸となって挑戦すべき事態と思わざるを得ません。

 こんなことを考えている時、昨年12月1日に大阪城ホールを埋め尽くした「一万人の第九」をホール・アリーナで聴く機会ができました。私の長男秀行、妻と次女、その長男(小6)に加え千葉在住の長女が遠路合唱に出演したのです。

 

 

 ベートーヴェン作曲の第九交響曲(1824年作)は、高校生時代からよくレコードで聴いていました。

受験勉強の傍ら愛読していたロマンローランの大河小説「ジャン・クリストフ」のモデルと言われるベートーヴェンの苦闘と栄光の生涯を思い描きつつ、勉強に拍車をかけたことを回想し、佐渡裕氏指揮の熱演に聴き入りました。

 

一万人の第九本番前の様子(大阪城ホール)

 

 いくつかの前座のプログラムのあと、壮大な音響から始まる煉獄の暗夜行路を示唆する第1楽章から第2・3楽章「天上の音楽」の対峙を経て、いよいよ最終第4楽章「歓喜の歌」の大合唱。

フリードリッヒ・フォン・シラーの詩(1785年作)を元にした「おお友らよ、これらの調べではなく、もっと心地よい、もっと喜びに満ちた調べに声を合わそう」という朗々としたバリトンの独唱に始まります。

 そしてこの第一声により、これまでの音楽に別れを告げ、新たな音楽、ベートーヴェンが求め続けていた理想の世界を歌う1万人の大音声が場内に響き渡ります。

 「すべての人は兄弟になる」

 「抱き合え、幾百万の民よ」

 「この口づけを全世界へ」

 「星空の彼方に愛しい父が住まう」

と理想の楽園に誘う調べに、一万人の合唱団に合わせ、客席の4千人の聴衆も一体となって「歓び」の世界を謳歌します。

 私も、フィナーレまでの演奏中、時のたつのも忘れ合唱に唱和し、感動を抑えることができませんでした。

 これまで度々聞いた「第九」とは違った次元で冒頭に記した現在の世界・国内の状況を思い浮かべつつ、今こそこの閉塞状況の改善にこのベートーヴェンの精神を生かしたとの思いに駆られたものでした。

 以上新春を迎えての雑感です。(弁護士 赤沢敬之)

(ニュースレター2020年新年号より)

 

赤沢敬之

戦争体験と弁護士

| 2019年9月12日

以下は、昨年60周年を迎えた春秋会(大阪弁護士会7つの会派の一つ)が発刊した60周年記念誌の「戦争体験と弁護士」という特集に掲載された赤沢敬之弁護士のインタビュー記事です。8月も終わり、すでに9月に入りましたが、一弁護士の戦争体験としてお読みいただければ幸いです。(インタビュアー 河村利行弁護士)

 

1.先生がお生まれになったのは?

「1936(昭和11)年2月8日に四国徳島の鳴門で生まれました。終戦の時は、9才で小学校4年生でした。」

 

 

2.戦時中のご体験は?

「昭和16年10月に、父親が上海で自動車修理工場をしており、仕事が軌道に乗ったということで、母親と祖母、妹3人が一緒に上海に行きました。神戸から豪華客船2万トンの大洋丸に乗船し、親戚の見送りがあり、2日かけて行きました。」

「昭和17年4月に上海第6国民学校に入学し、上海の共同租界で生活しました。その当時は日本も元気なころでした。近隣には、中国の家族も普通に生活しており、仲良くしていました。しかし、家の近くの上海北駅で抗日の爆破事件があったことは家の2階から見てびっくりしました。太平洋戦争が始まると、学校では軍事訓練(竹槍や手旗・モールス信号)をしたことを覚えています。」

「共同租界ですので、戦争の情報なども正確に伝わるのか、昭和19年になると、父が『日本は負ける』という情報を伝え聞いたようです。」

 

Hongkou Japantown(Wikipediaより)

 

「そこで、昭和19年10月、国民学校3年の時に日本に帰国することになりましたが、帰国の許可がなかなか下りなかったということでした。父親は、帰国の許可が下りず、また、現地の工場の整理もあって、家族だけで帰国し、父親は上海に残りました。夜の上海港の埠頭で、父と永久の別れかもしれないと子ども心に思ったことを記憶しています。」

「帰りは6千トンの軍用貨物船で、船底に茣蓙を引いて雑魚寝で、夜は灯火管制で停泊しながら、米軍機の攻撃や魚雷・水雷を避け、海岸沿いを通って1週間かかり門司港に帰ってきました。上海にはあまり緑がなかったので、門司港の緑豊かな山河が鮮烈でした。」

 

現在の関門橋と門司港

 

「甲板に皆が集められ、船長から、万一の時(船を沈められたような場合は)は、なんとかして子どもを船の外に投げ出せ、それを船員が助けるというような話があったことが印象に残っています。因みに、往路の大洋丸も帰りの軍用貨物船も敗戦までに沈没させられています。命からがらの帰国でした。」

「帰国後は、徳島の農村の父親の実家の納屋で生活することになり、その後、海岸近くの町の住宅街に移りました。帰国時は8才で、地元の国民学校3年生に転校しました。」

「納屋から一軒家に移りましたが、徳島の田舎町でしたので、空襲等の経験はありませんが、灯火管制はあり、また防空壕も空き地に作りました。徳島市内が空襲され、焼夷弾が落とされているのが遠くから見えました。農村の畔道で、米軍の飛行機に追いかけられましたが、子どもと見て飛び去ったことは覚えています。」

 

3.先生は敗戦をどのように迎えられましたか。

「昭和20年8月15日は、小学校4年生でしたが、海水浴のため海岸への道を歩いているときに、三木武吉の別荘から玉音放送が流れてくるのを聞きました。それが、終戦の放送であることは、子どもながらになんとか理解できました。」

「学校での生活も変わり、教科書を墨塗りにしたり、講堂の奥に隠された「ご真影」もなくなり、先生の態度が柔らかくなった思い出があります。校庭に生徒が集められて、新しい憲法の話もあり、昭和22年中学1年のときには、「あたらしい憲法のはなし」という冊子が社会科の教材として配られました。ずいぶん変わったのだなと思った記憶があります。」

 

『あたらしい憲法のはなし』での戦争放棄の原則を表した挿し絵。(Wikipediaより)

 

「昭和21年4月に、父親が思いがけなく帰国してきました。昭和22年に大阪で仕事を始めることになり、母親が小さな弟博之(24期・春秋会)だけを連れて大阪に出て、父親の手伝いをしておりました。」

「私が大阪の天王寺に出てきたのは、昭和24年の春、中学2年生になるときでした。四天王寺の近くが焼け野原になっているのを見て、衝撃を受けました。家族全員が大阪で生活するようになったのは、昭和25年になってからでした。」

 

空襲後の大阪市街(Wikipediaより)

 

4.先生の戦争体験は、のちに弁護士になられたこと、または、弁護士になった後の弁護士の仕事の内容と関係がありますか。

「少年時代にリンカーンの伝記を読んだり、佐藤紅緑の少年熱血小説に親しみ、何か人のために役立つことをしたいという思いは、ずっと持っていました。勿論具体的な弁護士像などは知る由もなく、大学進学の頃に法学部コースを選んだ頃から漠然と憧れを抱くようになったのではと思います。戦争体験は、平和や憲法に対する思いの基礎になっていると思います。」

 

ああ玉杯に花うけて 少年倶楽部名作選 (講談社文芸文庫)

 

「昭和36年に弁護士となり、昭和27年6月に発生した朝鮮戦争に対する米軍の軍事物質輸送に反対するデモ行進参加者を大量に逮捕し、騒擾罪で起訴をした吹田事件の主任弁護人山本治雄先生の事務所に入りました。当時若手の石川元也・井関和彦・阿形旨通(故人)先生ら常任弁護団の事務局長として度々合宿し、膨大な事件記録と格闘した青春の日々は私の原点となっています。幸いこの事件は一審無罪が最高裁で確定しました。」

 

吹田事件を扱った雑誌の記事(Wikipediaより)

 

5.第二次世界大戦をどう思いますか。戦争体験が風化している現状についてどう思われますか。

「朝鮮・中国からアジアに資源の確保を狙って日本が行った戦争が侵略戦争であったことは間違いないのであり、そのことを忘れず、若い皆さんに戦争体験を伝えていかなければならないと思います。」

「ともかく戦争は一般市民にとっていいところはなく、特に核戦争時代の現代は一触即発で国家そのものが破滅する危険にさらされています。なんとしてもそのような事態を食い止めるため、戦争の危機感を無暗に煽る政治勢力の跋扈を許さない意思と行動を選挙などで示したいものです。」

 

6.現在憲法70年経過して憲法をどう思われますか。現在の憲法改正の議論をどのように考えておられますか。

「自分の在職中に憲法9条を改正したいという首相の思いのみで、拙速に改正を議論するのは誤りです。アジアへの侵略戦争の反省もなく、アメリカの世界戦略に呼応して、自衛隊の海外派遣の道を大幅に開く可能性のある「改正案」は許してはならないと思います。幸い国民の大半は憲法改正は望んでいませんが、狡猾な手法での既成事実の積み重ねには警戒しなければなりません。」

(春秋会60周年記念誌より)

 

事務局

疎開のころ

| 2019年5月27日

新元号が発表されたのを見て考えてみました。若し年号というものが、時の流れの中で何らかの区切りの役割を持つとするのであれば、一九四五年の戦争終結は、別の結節点としての意味を持つのではないか。今その頃を振り返って若干の思い出を誌す試みも、あながち無意味でもないのではないかと。小学校四年生当時の昔話ですが、ご笑読下されば幸いです。

*  *  *

初秋の晴れた朝、神戸駅を発った生徒たちは、たぶん初めての単線を走る蒸気機関列車の窓から見なれぬ風景に驚きながら、姫新線の津山駅に着いた。その日から四年生、五年生、六年生の男子生徒と先生方は、お寺の広間での集団生活が始まった。

 

三年前の一九四五年(昭和16年)12月8日に英国や米国との戦争が始まり、戦況が進むうちに、いつなんどきの敵機の神戸来襲に備えて、少国民の命を考えて、親たちのもとを離れる学童の集団疎開となり、中国山地にある津山のお寺での集団生活が始まることになった。

 

日当たりの良い畳敷の長い空間が生徒たちの起居と食事や放課後の生活の場となった。お寺の前庭での朝礼は、五つの班(小隊)に分かれた生徒たちの点呼から始まる。五つの班を統率する中隊長はIさんである(神戸の校区では黒潮会という小学生の早起き会があり、海軍体操と呼ばれる、やや程度の進んだ体操が毎朝行われ、その会長はIさんであった)。朝の体操の前に天皇陛下のおわす宮城への遥拝があったかどうかははっきり覚えていない。時には行軍の練習があったり、白と赤の旗を持って手旗通信の練習もなされた。また、モールス信号の(イ)・-、(ロ)・-・-、(ハ)-・・・(イトー、ロジョーホコー、ハーモニカ)、などの暗誦用長音「-」、単音「・」の意味が判りはじめていた。

 

夕食は、本堂の前の横に長い空間の長机に並んで、K先生の唱導で「一滴の水は天地御徳の潤い、一粒の米は万人労苦のたまもの、一口ごとに国の恵みと親のご恩を噛みしめて有難くいただきます。」と唱和して始まった。

 

食後には歌の発表もあり、流行歌や軍歌などが次々と出るようになり、「予科練のうた(若い血汐の予科練の七つボタンは桜に錨・・・)」は、よく歌われた。同級生のT君は、背を丸めておとなしかったが先生に当てられると、おおらかな声で終わりまで野崎小唄を歌ってくれた。はじめて聞かされ、今でも覚えている(野崎まいりは屋形船でまいろ。お染久松せつない越えて・・・)。T君はおばあちゃん子で、家でよく歌になじんでいたのかもしれない。第五班の班長のAさんは、「ルンペンの歌」を歌ってくれた(酔った酔ったよ五勺の酒で・・・すっからかんの空財布ふってもルンペン呑気だね。)。

 

四年生の授業は、第三小学校三階の図書室で行われたように思う。国史の時間では、神武天皇の始まり、スイゼイ、アンネイ、イトク・・・オウジン、ニントク・・・明治、大正、今上(昭和)天皇に至る一二四代の暗誦が試みられたが皆難しかった(もとより、平成、令和などはない。)。唱歌では、Y先生が「昼」という歌を教えて下さった。今でも口ずさむことがある。「歌に疲れ、文に倦みて、たづさえ行くや春の野、小川のね芹、おし分け逃ぐる小鮒の腹白く光る。」勉強を離れてゆっくりしなさい、との声かもしれない。

 

放課後であったのか休日であったのか、班の子たちが川向こうの広々とした野を散策していた折のこと、N君は野壺にはまってしまい、べそをかきながらお寺の井戸端でおばあちゃん(住職のお母さん)から釣瓶の水を何ばいも浴びせられ、閉口していた。

 

無口なM先生は絵の受持であり、がんさい(石絵具)を使い、よく部屋で私たちの生活を画いて下さった。ある日のこと、お寺を抜け出して鉄道線路伝いに神戸へ帰ろうと寺を出た少年がいた。M先生は探しに寺を出て、どうやって見つけられたのか、「○○○○オッタ、マエダ」という電報が寮母さん(住職の奥さん)のところに届き、みな安心することができた。虱がわいて児童に拡がっていた。身に覚えがないと信じていた僕もみんなの前で下着を脱いでみると果たして虱が出てきた。仲間のシャツ、パンツはお寺の大きな窯で茹でられることになった。両方の親指の爪で卵や虫をプツンと潰したりが上手になったが、下着の裏側や親が編んだ毛糸シャツの網目ごとに産みつけられている卵には往生した。

 

親の面会があった児童は、仲間から羨ましがられた。面会の時に貰ったお金で疎開の児童はその頃外で食べ物を買える店が見つけられず、ひもじさ凌ぎに薬局店で噛みでのあるワカモト、ビオフェルミンなどの消化剤の錠剤を買ってきて、それを噛み飢えを凌いだ気になっていた。錠剤用のガラスびんは、取り集めた虱の容器となった。それまで親の面会がなかった僕は、自分はホン子(実の子)ではないのでは、と葉書きに書いたのを受け取った父は、数日後、汽車の切符の配給を受けて、積雪のことを思い編み上げ靴を履いて会いに来てくれた。持ってきてくれたハッタイ粉や干し芋は有難かった。

 

その後、戦局は悪化し、姫新線の中心市であるこの津山も到頭敵機の襲来を受けるのではないかということで、疎開児童は一駅西にある院の庄という駅から山奥に入った極楽寺へ再疎開をすることとなった。先生も減って、K先生とだんご鼻のY先生二人となった。K先生のあだ名はカッパで、野外を歩くとき蜂が飛ぶのを見ると、糸をつけ巣を見つけると蜂の子を採って蜂の子めしを作るのだ、などと話してくれた。一年生の時からずっと音楽を受け持ってこられた。極楽寺を下って麓の農協からリヤカーを押して叺(かます)一俵の大麦を大切に寺へ運んだりした。

 

院の庄の学校の講堂で兵隊さんの慰問にと二人の生徒が即興で漫才を演じたこともあった。稲刈の頃の一日、疎開児童が村の人家に一夜分宿して腹いっぱい食べさせてもらったことがある。村のUさんの家で牛の肉などが煮込まれ、それをしこたまいただいて泊まった夜中に、食べ過ぎたお腹のものを牛小屋の敷藁の中に吐瀉したのを恥ずかしく覚えている。
極楽寺で風雨の激しい(台風?)翌日には、すぐ下の池のまわりの土に鮒などがあがって腹を見せていた。これがバケツに満ち、みんなで焼いて食べる。その時は骨も目玉も食べつくし、皿の上には何も残らなかった。疎開生活を通じ焼きたての魚を食べたのは、この時だけだったかもしれない。

 

何となく日本が戦争に負けたらしいと伝わっていたある日、お寺の若様が復員された。予科練からと聞いていた。境内や川原でボールを放り投げたり、捕球を教わっていた。
それからしばらく後のこと、とうとう学童疎開が終わることになった。そして、ある日、疎開の生徒たちは津山駅近くの吉井川の川辺で列車の出発を待っていた。そのとき、五年生になっていた私たちは、もうこれ切り会えないものと思った。津山で撮ったわずかの写真を見せ合っていた生徒たちもいた。

 

とっくに暗くなって列車が神戸駅に着くと辺りは真暗であった。親の迎えを受けたあと生徒たちはそのまま別れ別れとなった。町は真暗闇で焼跡の地面が拡がっていて、道すがらガスの漏れた匂いが暗闇の中で蘇った。

 

このような姿で疎開の時は終りとなった。          (弁護士 浦島三郎)

 

(ニュースレター平成31年春号より)

事務局

pagtTop