事務所便り

カテゴリ:ニュースレターより

新年ご挨拶

| 2021年1月18日

東大寺大仏殿

明けましておめでとうございます。新しい年を迎え、所員一同今年も心を新たに仕事に取り組みたいと念じています。どうかよろしくお願い申し上げます。

 さて、過ぐる年は、新型コロナウィルスの全世界への感染拡大による社会・経済・生活への計り知れない被害をもたらした1年でした。そしてその勢いは今なお収束どころか増大の一途を辿っています。今年は、コロナ対人類の対決をどのように決着させるかという重大な年になりそうです。14世紀中頃ヨーロッパで猛威を振るい約2500万人もの死者を出したという黒死病(ペスト)の大流行や、約1世紀前の全世界の死者5000万人というスペイン風邪の蔓延の例を繰り返すことのないよう願い、市民としてなすべきことを果たさねばと思います。

 そして国内では、コロナ騒動の渦中で菅内閣が安倍政権を引き継ぎました。良い仕事をしてくれることを期待したいものですが、その菅政権の最初の仕事が、学術会議の推薦名簿から政府の施策に批判的な6名の学者の任命拒否であったことは驚きと公憤を禁じ得ませんでした。組織改革の必要性に関しては種々議論があるものの、任命拒否の理由について「回答を差し控えます」の繰り返しや論点のすり替えでは、学術会議法違反や「学問の自由」「思想の自由」侵害という民主主義の根幹を蔑ろにするものと言わざるを得ません。「モリ・カケ・桜」問題で権力の私物化を批判された前政権の悪弊をも承継するものであり、法律家の一人として見過ごすことは許されないと痛感しています。

 一方、明るい話題といえば、小職の孫たちも夢中で読んでいるマンガ「鬼滅の刃」ブーム。残念ながら私自身は未読ですが、ノスタルジーあふれる大正時代の鬼退治の話だそうで、マンガも映画も異例の大ヒット、今やコロナ禍で喘ぐ日本経済の救世主とも言われているそうです。一つの事象が社会を動かす好例といえましょうか。

 あれやこれやでこの新年は、試練の年となりそうですが、マスク常用や過密を避け無用の外出自粛などの日常生活の不便に耐えながら、市民の権利を守る職務を誠実に全うしたいと念じています。

二〇二一年 元旦 (弁護士 赤沢敬之)

(ニュースレター2021年新年号より)

赤沢敬之

レタスの夏

| 2020年9月17日

 春先から続くコロナ禍に追い打ちをかけるような梅雨の豪雨災害と、いつになく心落ち着かない夏となりましたが、皆様におかれてはいかがお過ごしでしょうか。

 さて、この事務所ニュース夏号の巻頭言を書くにあたり、ここはやはり、目下、世間の最大の関心事であるコロナに関したことを書くべきではないかとあれこれ思いをめぐらしたのですが、私の文才ではコロナをテーマに皆様にお読みいただくような文章を書くのは無理とあきらめ、代わりに、コロナとは何の関係もない私個人のある夏の思い出を書いてお茶を濁すことをお許しください。

***

 その夏とは、1984年(昭和59年)、私が24歳の年の夏でした。弁護士を目指して大学3年から司法試験を受け始めましたが、在学中に合格することは出来ず、その年の春に大学を卒業し、人生で初めて何の肩書きも持たない浪人の身分になっていました。

 7月下旬に論文試験を受け、10月頭の合格発表まで2か月余りの期間がありましたが、その年も自分としては落ちたと思っていましたので、最後の口述試験に向けての勉強は手につかず、生活費を稼ぐ必要もあって、バイトをすることにしました。そして、その前年に知り合いの受験仲間が福島県の梨農家でバイトをして歓待されたという情報を聞き、それなら私は趣味にしていた山登りの雑誌のバイト広告で見た長野県佐久地方の川上村というところのレタス農家にしようと決め、7月のうちに東京から電車で川上村に向かいました。

***

 当時はまだ国鉄だった小海線の信濃川上という駅で降り、バイト先の農家の人(バイト仲間は「旦那さん」と呼んでいました)に車で迎えに来てもらったのですが、その旦那さんが初めて私を見た時に一瞬顔が曇ったように見え、私は自分が歓迎されていないように感じました。その理由は間もなく分かりました。

 農家に着くと、先に就労していたバイト仲間が5~6人おり、その人たちと一緒の、普段はその農家の小学生の子供の勉強部屋として使われているものと思われる大部屋に通され、そこで寝起きすることになりました。

 そして、翌日からさっそくバイト仕事が始まったのですが、朝5時に起き、朝飯をかっくらってから車に乗せられ、レタス畑に着いたのが6時頃、それからレタスの出荷作業が始まりました。

 私が担当させられたのはレタス切り、つまり、畝に列状に植わっているレタスを包丁で切っていく仕事でした。口で言うとそれだけのことですが、これが実際にやってみると大変。ご存知のように、レタスは中心の葉が球状に固まっている部分が「外葉」という少し開き気味の葉にくるまれているのですが、この外葉が2~3枚残る位置で芯を切らないといけません。この外葉がとれてしまうと、等級が下がってしまうのです。それもマイペースでやればよいというわけではありません。農協の集荷時間が午前10時頃と決まっており、それまでに集荷場に持ち込まないとその日は出荷できなくなりますので、皆、それに間に合わせようと必死で作業をするのです。ゆっくりやっていると、私が切って置いたレタスをダンボール箱に詰める役の農家の奥さんが後ろからどんどん迫ってきて、「遅い!」と怒られます。かといって慌てて切ると、外葉を全部落としてしまい、今度は旦那さんから「等級が下がる」と怒られます。そんな気の抜けない作業が3時間以上続きました。しかも、その間は中腰前屈みの姿勢で立ちっぱなしですから、最後の方は下半身の感覚が無くなりました。

 午前中にレタスの出荷を終えた後は、いったん農家に戻って昼食を食べてから、今度は午後の作業です。レタスの収穫が終わった畑に新たに作物を植えるため、土の上に張った黒色のビニールシートをはがしたり、トラクターで鋤き直した畑に苗を植えたりといった作業が夕方の6時頃まで続きました。高原とは言え、日中は真夏の容赦ない日差しが照りつけ、冷房の効いた大学の図書館で受験勉強しかしていなかった身には、まるで地中のミミズがいきなり炎天下のアスファルトの上に投げ出されたみたいなもので、終わった頃には疲労困憊で立つのもやっとの状態でした。

 そんな作業を必死の思いで2日続けた時点で、私はここは自分のような人間が来るべき場所ではなかったことを悟りました。そして、3日目の作業の休憩時間中に、旦那さんに、「バイトをやめて帰ります」と言おうと決心しました。ところが、どういう訳か、その時に、旦那さんは、買っておいた缶ジュースを皆にふるまってくれたのです。それで、私は、言う機会を逸してしまいました。そして、翌日からもあの過酷な作業に従事する羽目になってしまったのです。

 しかし、人間の体というのはおかしなもので、そんな過酷な作業も、歯を食いしばって一週間ほど続けているうちに、だんだんと体が慣れ、他の人のペースについていけるようになってきました。受験勉強中、体ごなしのため、昼休みに大学のプールで毎日泳いでいたことも少しは役に立ったのかも知れません。

 そして、お盆が近づき、畑を吹く風が少し涼しく感じる頃には、外葉を残して切ることもうまくできるようになり、旦那さんから叱られることも少なくなりました。また、畑で作業しながら遠くに見える八ヶ岳の美しい山容を眺める余裕もでてきました。

バイト仲間とレタス畑で撮った写真。前列左から二人目が筆者。後ろの山は八ヶ岳。

 ところが、その頃から、左手の中指がだんだん腫れてきて、ついには普段の太さの1・5倍くらいまで膨れあがりました。包丁で誤って切った指の傷口から畑の雑菌が入り、化膿したのです。そこで、一日バイトを休み、少し離れた佐久市内の病院に行って指を切開してもらいましたが、切った所に溜まった膿を排出するためのドレーンを差し込まれ、その上を包帯でぐるぐる巻きにされて、レタス切りどころではなくなりました。それで、川上村にいてもしょうがないので、治るまで東京に帰ることにしました。帰る時には旦那さんにそれまで働いた分の給料を精算してもらいましたが、おそらく、旦那さんは、その時、こいつはもうここには戻ってこないだろうと予想していたものと思います。

 しかし、東京に1週間ほどいて傷口がふさがった私は、お盆過ぎに、旦那さんの予想に反してまた川上村にもどり、バイト仕事に復帰しました。そして、結局、高原に朝霜が降りる9月末頃まで働きました。

***

 一緒に働いたバイト仲間には、将来自分で農業経営をすることを目指している同い年の青年や登山家を目指している人など、いろんな人がいましたが、バイトが休みの日には、一緒に奥秩父の金峰山に登ったり、清里の方にドライブに行ったりなど、いい思い出もできました。
 バイトを終えて東京に帰る日の前の晩に、旦那さんに最後の精算をしてもらいましたが、その時に、旦那さんから「井奥さん、あんたが最後まで続くとは思っていなかったよ」と言われたのは、私にとって最高の褒め言葉でした。

 そして、東京に帰る途中、浅間山麓の鬼押出しに寄り、遠く東京の方の空を眺めながら、また始まる1年間の受験生活のことを考えましたが、このバイトに比べたら司法試験の受験生活なんか楽なもんだと思え、闘志が沸いてきました。法務省中庭の司法試験合格発表会場の掲示板に自分の受験番号を発見したのはその2日後のことでした。

 それから36年、弁護士になってからも33年が経ち、仕事の上でつらい状況に立たされることも時にはありましたが、そんな時には川上村のレタス切りバイトのことを思い出し、あれができたんだからこれも何とかなるはずだと心の支えになりました。

 どなたにも、あのことを思えば頑張れるという体験が一つくらいはおありかと思いますが、私の場合のそれをお話しした次第です。

(ニュースレター2020年夏号より)

井奥圭介

新年ご挨拶

| 2020年1月24日

比叡山律院

 明けましておめでとうございます。新年を迎え、所員一同今年も心を新たに仕事に取り組みたいと念じています。どうかよろしくお願い申し上げます。

 さて、昨今の世界的な傾向は、社会の分断化と敵対化、貧富の格差の固定と拡大など人々の平穏で安全な暮らしが脅かされる事態が日々進展しています。それだけでなく地球温暖化による環境問題が自然災害を増幅させる一方、核兵器や原子力発電事故の脅威もいつ人類滅亡の危機を呼び起こすのかと憂慮されます。

 また、国内においても、国民の代表たるべき政権与党が、権力の集中を笠に着て、税金の私物化にとどまらず、公文書の隠匿、廃棄などの所業を繰り返しつつ、軍事力を明記する「憲法改正」の旗を振るなど、平和主義・民主主義・基本的人権の破壊の危惧さえ感じさせられます。
いまや世界全体が地球規模ひいては宇宙規模の憂慮すべき課題に、人類一丸となって挑戦すべき事態と思わざるを得ません。

 こんなことを考えている時、昨年12月1日に大阪城ホールを埋め尽くした「一万人の第九」をホール・アリーナで聴く機会ができました。私の長男秀行、妻と次女、その長男(小6)に加え千葉在住の長女が遠路合唱に出演したのです。

 

 

 ベートーヴェン作曲の第九交響曲(1824年作)は、高校生時代からよくレコードで聴いていました。

受験勉強の傍ら愛読していたロマンローランの大河小説「ジャン・クリストフ」のモデルと言われるベートーヴェンの苦闘と栄光の生涯を思い描きつつ、勉強に拍車をかけたことを回想し、佐渡裕氏指揮の熱演に聴き入りました。

 

一万人の第九本番前の様子(大阪城ホール)

 

 いくつかの前座のプログラムのあと、壮大な音響から始まる煉獄の暗夜行路を示唆する第1楽章から第2・3楽章「天上の音楽」の対峙を経て、いよいよ最終第4楽章「歓喜の歌」の大合唱。

フリードリッヒ・フォン・シラーの詩(1785年作)を元にした「おお友らよ、これらの調べではなく、もっと心地よい、もっと喜びに満ちた調べに声を合わそう」という朗々としたバリトンの独唱に始まります。

 そしてこの第一声により、これまでの音楽に別れを告げ、新たな音楽、ベートーヴェンが求め続けていた理想の世界を歌う1万人の大音声が場内に響き渡ります。

 「すべての人は兄弟になる」

 「抱き合え、幾百万の民よ」

 「この口づけを全世界へ」

 「星空の彼方に愛しい父が住まう」

と理想の楽園に誘う調べに、一万人の合唱団に合わせ、客席の4千人の聴衆も一体となって「歓び」の世界を謳歌します。

 私も、フィナーレまでの演奏中、時のたつのも忘れ合唱に唱和し、感動を抑えることができませんでした。

 これまで度々聞いた「第九」とは違った次元で冒頭に記した現在の世界・国内の状況を思い浮かべつつ、今こそこの閉塞状況の改善にこのベートーヴェンの精神を生かしたとの思いに駆られたものでした。

 以上新春を迎えての雑感です。(弁護士 赤沢敬之)

(ニュースレター2020年新年号より)

 

赤沢敬之

2000万円問題で私たちがまずやるべきこととは?

| 2019年9月5日

こんにちは!相続アドバイザーでFP・行政書士の赤澤秀行です。

終活に深く関係する老後資金問題。今回はあの2000万円問題を取り上げます。

 

老後資金2000万円不足問題ってなんだったのか?

ご存知「老後資金2000万円不足問題」。

金融庁が6月に出した報告書で、「老後は年金以外に平均2000万円必要」と試算されたことで、世論・メディアが大炎上、はては政局にまで発展する大問題になったことは記憶に新しいことと思います。

この2000万円の試算根拠は、総務省の「家計調査」を元にしたもので、高齢者夫婦(夫65歳以上、妻60歳以上の夫婦のみの無職世帯)の平均家計収支が月約5万円不足し、仮に65歳から95歳まで長生きすると、30年分で約2000万円不足するというものでした。

厚生労働省 提出資料01より

ただ、この数字自体に特に意味があるわけではありません。

あくまで《サラリーマンと専業主婦》という高齢者夫婦無職世帯を対象とした「平均」であって、当然ながら実際の老後の家計は人それぞれ全く異なるからです(そのことは先の報告書にもちゃんと書いてあります)。

年金で十分暮らしていける人もいれば、2000万円では到底足りないという人もいます。

我々が気にするべきは、「さて、では自分の老後を試算した場合、いったいどれぐらいの老後資金が必要なのか」という自己分析です。

 

ライフプランをシミュレーションしてみよう!

ではどうやって自分自身に必要な老後資金を試算すればよいでしょうか。

ここで役立つのがファイナンシャル・プランナー(FP)が業務で日常的に作成している「ライフプラン」です。

このライフプランは別にFPでなければ作れないものではありません。やり方さえ分かれば誰でも比較的簡単に作成できます。

ここでは無料でできる方法をいくつかご紹介しましょう。

 

【その1】スマホから3分でライフプラン

まずは、簡単な質問に答えていくだけでライフプランが作れるネットサービスを利用する方法。

スマホやPCから「ライフプラン シミュレーション」と検索してみてください。
日本FP協会を始め、様々な金融機関や保険会社、証券会社などが独自のライフプランシュミレーターを自社サイトで提供しています。

日本FP協会のライフシミュレーター

ゆうちょ銀行のライフシミュレーター

 

いくつかの質問に答えていくだけで、色々なデータをカラフルなグラフとともに見せてくれてちょっと楽しい(*^^*)。

入力情報が少ないため、あくまで簡易的なものですが、はじめてライフプランを体験する方にはピッタリのサービスです。

 

【その2】専門家も使う無料のシミュレーター

もう少し本格的にプランニングするなら専門ソフトを。

プロ御用達の「FP名人」のような有料ソフトもありますが、無料でも有料ソフトに引けを取らないものもあります。

例えば、個人利用はもちろん、FP業務利用も想定して開発されている「Financial Teacher System」。

Financial Teacher Systemのメインメニュー

 

入力項目は多いですが45ページにも及ぶ詳細なレポートを自動で作成してくれます。

ある程度の知識があったほうがベターですが、ほとんどの項目で親切なヘルプが充実しており、頑張れば充実したライフプランニングができるはず。しかも頻繁にアップデートをしているため、年金や税金を始め、最新のデータを使った詳細なシミュレーションが可能です。

 

【その3】実はエクセルを使うのが一番便利だったりして

最後はちょっとアナログに、エクセルを使ったシミュレーション。

計算式を入れて自分で作るのもいいですが、ここはあるものを使いましょう。例えば、日本FP協会が提供しているエクセル表はどうでしょう。

日本FP協会提供のキャッシュフロー表

 

PDFもダウンロードできるのですが、パソコンが使える方は自動計算してくれるエクセルのほうが断然便利。慣れてくると、実はリアルタムにシミュレーションできるエクセルが一番使い勝手がいいと感じるかもしれません。

そのほか、上記の「Financial Teacher System」でも、出力されたレポートをエクセルファイルでダウンロードして自由にカスタマイズできますので、エクセルに詳しい方はぜひチャレンジしてみてください。

ちなみに、弊所でダウンロードできるエンディングノートにも、「マネープラン」のパートがあり、基本的なライフプランシミュレーションができるようになっています。

弊所のキャッシュフロー表

 

 

足りない老後資金、さてどうしよう?

ライフプランソフトでシミュレーションしたみたところ、このままでは老後資金が足りないという結果が出た場合、どうやって対策をすべきでしょうか。

実は、我々が取りうるアクションは3つだけ。

すなわち、

収入を増やす

支出を減らす

資産を増やす(運用する)

といっても、①と③はなかなか直ぐどうにかなるものでもありませんよね。
やはり一番実行しやすい②から始めるのが王道です。

ともあれ、まずはライフプランから。備えあれば憂いなしです。

(ニュースレター2019年夏号より)

弊所では外部のFPチームとも連携して、ライフプランの作成から、老後資金対策まで、終活相談に幅広く対応しています。法的手続きも弁護士のバックアップで安心です。
終活・相続のご不安・お困りごとはなんなりとご相談くださいね!(^^)

赤澤秀行

疎開のころ

| 2019年5月27日

新元号が発表されたのを見て考えてみました。若し年号というものが、時の流れの中で何らかの区切りの役割を持つとするのであれば、一九四五年の戦争終結は、別の結節点としての意味を持つのではないか。今その頃を振り返って若干の思い出を誌す試みも、あながち無意味でもないのではないかと。小学校四年生当時の昔話ですが、ご笑読下されば幸いです。

*  *  *

初秋の晴れた朝、神戸駅を発った生徒たちは、たぶん初めての単線を走る蒸気機関列車の窓から見なれぬ風景に驚きながら、姫新線の津山駅に着いた。その日から四年生、五年生、六年生の男子生徒と先生方は、お寺の広間での集団生活が始まった。

 

三年前の一九四五年(昭和16年)12月8日に英国や米国との戦争が始まり、戦況が進むうちに、いつなんどきの敵機の神戸来襲に備えて、少国民の命を考えて、親たちのもとを離れる学童の集団疎開となり、中国山地にある津山のお寺での集団生活が始まることになった。

 

日当たりの良い畳敷の長い空間が生徒たちの起居と食事や放課後の生活の場となった。お寺の前庭での朝礼は、五つの班(小隊)に分かれた生徒たちの点呼から始まる。五つの班を統率する中隊長はIさんである(神戸の校区では黒潮会という小学生の早起き会があり、海軍体操と呼ばれる、やや程度の進んだ体操が毎朝行われ、その会長はIさんであった)。朝の体操の前に天皇陛下のおわす宮城への遥拝があったかどうかははっきり覚えていない。時には行軍の練習があったり、白と赤の旗を持って手旗通信の練習もなされた。また、モールス信号の(イ)・-、(ロ)・-・-、(ハ)-・・・(イトー、ロジョーホコー、ハーモニカ)、などの暗誦用長音「-」、単音「・」の意味が判りはじめていた。

 

夕食は、本堂の前の横に長い空間の長机に並んで、K先生の唱導で「一滴の水は天地御徳の潤い、一粒の米は万人労苦のたまもの、一口ごとに国の恵みと親のご恩を噛みしめて有難くいただきます。」と唱和して始まった。

 

食後には歌の発表もあり、流行歌や軍歌などが次々と出るようになり、「予科練のうた(若い血汐の予科練の七つボタンは桜に錨・・・)」は、よく歌われた。同級生のT君は、背を丸めておとなしかったが先生に当てられると、おおらかな声で終わりまで野崎小唄を歌ってくれた。はじめて聞かされ、今でも覚えている(野崎まいりは屋形船でまいろ。お染久松せつない越えて・・・)。T君はおばあちゃん子で、家でよく歌になじんでいたのかもしれない。第五班の班長のAさんは、「ルンペンの歌」を歌ってくれた(酔った酔ったよ五勺の酒で・・・すっからかんの空財布ふってもルンペン呑気だね。)。

 

四年生の授業は、第三小学校三階の図書室で行われたように思う。国史の時間では、神武天皇の始まり、スイゼイ、アンネイ、イトク・・・オウジン、ニントク・・・明治、大正、今上(昭和)天皇に至る一二四代の暗誦が試みられたが皆難しかった(もとより、平成、令和などはない。)。唱歌では、Y先生が「昼」という歌を教えて下さった。今でも口ずさむことがある。「歌に疲れ、文に倦みて、たづさえ行くや春の野、小川のね芹、おし分け逃ぐる小鮒の腹白く光る。」勉強を離れてゆっくりしなさい、との声かもしれない。

 

放課後であったのか休日であったのか、班の子たちが川向こうの広々とした野を散策していた折のこと、N君は野壺にはまってしまい、べそをかきながらお寺の井戸端でおばあちゃん(住職のお母さん)から釣瓶の水を何ばいも浴びせられ、閉口していた。

 

無口なM先生は絵の受持であり、がんさい(石絵具)を使い、よく部屋で私たちの生活を画いて下さった。ある日のこと、お寺を抜け出して鉄道線路伝いに神戸へ帰ろうと寺を出た少年がいた。M先生は探しに寺を出て、どうやって見つけられたのか、「○○○○オッタ、マエダ」という電報が寮母さん(住職の奥さん)のところに届き、みな安心することができた。虱がわいて児童に拡がっていた。身に覚えがないと信じていた僕もみんなの前で下着を脱いでみると果たして虱が出てきた。仲間のシャツ、パンツはお寺の大きな窯で茹でられることになった。両方の親指の爪で卵や虫をプツンと潰したりが上手になったが、下着の裏側や親が編んだ毛糸シャツの網目ごとに産みつけられている卵には往生した。

 

親の面会があった児童は、仲間から羨ましがられた。面会の時に貰ったお金で疎開の児童はその頃外で食べ物を買える店が見つけられず、ひもじさ凌ぎに薬局店で噛みでのあるワカモト、ビオフェルミンなどの消化剤の錠剤を買ってきて、それを噛み飢えを凌いだ気になっていた。錠剤用のガラスびんは、取り集めた虱の容器となった。それまで親の面会がなかった僕は、自分はホン子(実の子)ではないのでは、と葉書きに書いたのを受け取った父は、数日後、汽車の切符の配給を受けて、積雪のことを思い編み上げ靴を履いて会いに来てくれた。持ってきてくれたハッタイ粉や干し芋は有難かった。

 

その後、戦局は悪化し、姫新線の中心市であるこの津山も到頭敵機の襲来を受けるのではないかということで、疎開児童は一駅西にある院の庄という駅から山奥に入った極楽寺へ再疎開をすることとなった。先生も減って、K先生とだんご鼻のY先生二人となった。K先生のあだ名はカッパで、野外を歩くとき蜂が飛ぶのを見ると、糸をつけ巣を見つけると蜂の子を採って蜂の子めしを作るのだ、などと話してくれた。一年生の時からずっと音楽を受け持ってこられた。極楽寺を下って麓の農協からリヤカーを押して叺(かます)一俵の大麦を大切に寺へ運んだりした。

 

院の庄の学校の講堂で兵隊さんの慰問にと二人の生徒が即興で漫才を演じたこともあった。稲刈の頃の一日、疎開児童が村の人家に一夜分宿して腹いっぱい食べさせてもらったことがある。村のUさんの家で牛の肉などが煮込まれ、それをしこたまいただいて泊まった夜中に、食べ過ぎたお腹のものを牛小屋の敷藁の中に吐瀉したのを恥ずかしく覚えている。
極楽寺で風雨の激しい(台風?)翌日には、すぐ下の池のまわりの土に鮒などがあがって腹を見せていた。これがバケツに満ち、みんなで焼いて食べる。その時は骨も目玉も食べつくし、皿の上には何も残らなかった。疎開生活を通じ焼きたての魚を食べたのは、この時だけだったかもしれない。

 

何となく日本が戦争に負けたらしいと伝わっていたある日、お寺の若様が復員された。予科練からと聞いていた。境内や川原でボールを放り投げたり、捕球を教わっていた。
それからしばらく後のこと、とうとう学童疎開が終わることになった。そして、ある日、疎開の生徒たちは津山駅近くの吉井川の川辺で列車の出発を待っていた。そのとき、五年生になっていた私たちは、もうこれ切り会えないものと思った。津山で撮ったわずかの写真を見せ合っていた生徒たちもいた。

 

とっくに暗くなって列車が神戸駅に着くと辺りは真暗であった。親の迎えを受けたあと生徒たちはそのまま別れ別れとなった。町は真暗闇で焼跡の地面が拡がっていて、道すがらガスの漏れた匂いが暗闇の中で蘇った。

 

このような姿で疎開の時は終りとなった。          (弁護士 浦島三郎)

 

(ニュースレター平成31年春号より)

事務局

平成から令和へ

| 2019年5月23日

旧事務所のホワイトビル

昭和が平成に変わった1989年、私は29歳、弁護士3年目で、“独身貴族”を謳歌していました。それから30年、一番の身上の変化は、結婚して、子どもも3人出来たこと。一番上の長男はもう社会人になりました。子を持って初めて分かったことも多いように思います。

そして、弁護士生活は33年目に入りました。平成の30年間は弁護士として過ごしたことになります。初めの頃は、ただひたすら依頼を受けた事件を終わらせるのに四苦八苦でしたが、弁護士という職業を30年以上続けてきて、奥の深い仕事であるとの感がますます強くなっています。

弁護士の仕事は、少々ニヒルな言い方をすれば、人同士の喧嘩の肩代わりという側面もありますが、それだけではつとまらない。その紛争をどのように解決することが、依頼者はもちろん、場合によっては事件の相手方を含めた全ての関係者にとって一番よいのか、そのことを考えていないと、いい仕事はできないように思います。

平成の間に事件の依頼を受けた依頼者の方々もかなりの数になります。事件の依頼を受けるということは、その人の人生になにがしかの関わりをもつということ、事件が解決することにより、その人の人生が良い方向に向かったのであれば、弁護士として喜ばしいことです。

時代はこれから令和に向かいます。新しい時代の到来とともに、法律紛争はますます複雑になることが予想されます。しかし、人と人との関係の基本は変わらないはず。したがって、弁護士に必要とされることの基本も変わらないはずです。気持ちを引き締めて、新しい時代を迎えたいと思います。

(ニュースレター平成31年春号より)

井奥圭介

事務所の年輪

| 2019年5月20日

去る4月1日、平成天皇の退位と新天皇の就位に伴う新元号が発表され、5月1日から「令和元年」が始まることとなった。

元来、元号は単なる時間の区切りを表すのではなく、中国の紀元前の前漢時代の武帝が統治の道具として使い始めたもので、わが国も「大化」に始まり、明治以降は「一世一元」の制度として国民統治の機能を果たしてきたが、国民主権の現憲法下においてもその仕組みを維持しつつ、そうした意味合いを払しょくした一定の時の流れいわば「時代」を象徴する道具として活用されている。

公文書では、時の表現として元号が使用され、国際化時代の現代では西暦の表示も併用されている。時の政府の民意無視と復古への憧れが際立つ昨今の政治の流れにおいて、新元号が発祥の時代への里帰りを象徴するものとして利用されないことを強く期待するものである。

 さて、そうした意味で、「平成」から「令和」への移行に際し、私たちの事務所の「年輪」を語っておきたい。

 私が、事務所創立者の山本治雄先生の事務所に入ったのが、昭和36年(1961)4月、司法研修所を出たばかりの「苗木」であった。修習の頃、弁護教官から、アメリカの弁護士の理想的なモデルとして、「仕事は自由に、暮らしは不自由ではないが、莫大な遺産は残さない」と聞かされたことがあり、これをモットーとして出発して以来、樹齢58年の年輪を数えた。元号を適用すると、昭和時代28年、平成時代30年となる。

思えば、高度成長期からバブル崩壊の前半期から停滞と格差拡大、分断の後半期に分かれるが、昭和時代には、昭和43年(1968)から辻公雄弁護士、同50年(1975)から三木俊博弁護士、同56年(1981)から河村利行弁護士が、それぞれ6,7年間事務所に在籍し、また昭和62年(1987)から後半の平成時代30年間を井奥圭介弁護士が事務所を支えてくれた。そして、大学駒場寮で同室であった浦島三郎元裁判官が平成18年(2006)に入所し現在に至る。 

いずれの弁護士も個性豊かで、理論派と実践派という傾向の違いはあっても、自由闊達な仕事ぶり、徒に金銭欲に走らない事件処理や弁護士会活動など社会的活動を通じて、事務所の年輪だけでなく姿形のよさを保持してくれたことに感謝したい。

これから始まる「令和」の時代に、果たして事務所の年輪と姿はどのようになるのか、私も生涯現役の覚悟で努力を重ねたいと念じている。

(ニュースレター平成31年春号より)

赤沢敬之

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