新元号が発表されたのを見て考えてみました。若し年号というものが、時の流れの中で何らかの区切りの役割を持つとするのであれば、一九四五年の戦争終結は、別の結節点としての意味を持つのではないか。今その頃を振り返って若干の思い出を誌す試みも、あながち無意味でもないのではないかと。小学校四年生当時の昔話ですが、ご笑読下されば幸いです。
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初秋の晴れた朝、神戸駅を発った生徒たちは、たぶん初めての単線を走る蒸気機関列車の窓から見なれぬ風景に驚きながら、姫新線の津山駅に着いた。その日から四年生、五年生、六年生の男子生徒と先生方は、お寺の広間での集団生活が始まった。
三年前の一九四五年(昭和16年)12月8日に英国や米国との戦争が始まり、戦況が進むうちに、いつなんどきの敵機の神戸来襲に備えて、少国民の命を考えて、親たちのもとを離れる学童の集団疎開となり、中国山地にある津山のお寺での集団生活が始まることになった。
日当たりの良い畳敷の長い空間が生徒たちの起居と食事や放課後の生活の場となった。お寺の前庭での朝礼は、五つの班(小隊)に分かれた生徒たちの点呼から始まる。五つの班を統率する中隊長はIさんである(神戸の校区では黒潮会という小学生の早起き会があり、海軍体操と呼ばれる、やや程度の進んだ体操が毎朝行われ、その会長はIさんであった)。朝の体操の前に天皇陛下のおわす宮城への遥拝があったかどうかははっきり覚えていない。時には行軍の練習があったり、白と赤の旗を持って手旗通信の練習もなされた。また、モールス信号の(イ)・-、(ロ)・-・-、(ハ)-・・・(イトー、ロジョーホコー、ハーモニカ)、などの暗誦用長音「-」、単音「・」の意味が判りはじめていた。
夕食は、本堂の前の横に長い空間の長机に並んで、K先生の唱導で「一滴の水は天地御徳の潤い、一粒の米は万人労苦のたまもの、一口ごとに国の恵みと親のご恩を噛みしめて有難くいただきます。」と唱和して始まった。
食後には歌の発表もあり、流行歌や軍歌などが次々と出るようになり、「予科練のうた(若い血汐の予科練の七つボタンは桜に錨・・・)」は、よく歌われた。同級生のT君は、背を丸めておとなしかったが先生に当てられると、おおらかな声で終わりまで野崎小唄を歌ってくれた。はじめて聞かされ、今でも覚えている(野崎まいりは屋形船でまいろ。お染久松せつない越えて・・・)。T君はおばあちゃん子で、家でよく歌になじんでいたのかもしれない。第五班の班長のAさんは、「ルンペンの歌」を歌ってくれた(酔った酔ったよ五勺の酒で・・・すっからかんの空財布ふってもルンペン呑気だね。)。
四年生の授業は、第三小学校三階の図書室で行われたように思う。国史の時間では、神武天皇の始まり、スイゼイ、アンネイ、イトク・・・オウジン、ニントク・・・明治、大正、今上(昭和)天皇に至る一二四代の暗誦が試みられたが皆難しかった(もとより、平成、令和などはない。)。唱歌では、Y先生が「昼」という歌を教えて下さった。今でも口ずさむことがある。「歌に疲れ、文に倦みて、たづさえ行くや春の野、小川のね芹、おし分け逃ぐる小鮒の腹白く光る。」勉強を離れてゆっくりしなさい、との声かもしれない。
放課後であったのか休日であったのか、班の子たちが川向こうの広々とした野を散策していた折のこと、N君は野壺にはまってしまい、べそをかきながらお寺の井戸端でおばあちゃん(住職のお母さん)から釣瓶の水を何ばいも浴びせられ、閉口していた。
無口なM先生は絵の受持であり、がんさい(石絵具)を使い、よく部屋で私たちの生活を画いて下さった。ある日のこと、お寺を抜け出して鉄道線路伝いに神戸へ帰ろうと寺を出た少年がいた。M先生は探しに寺を出て、どうやって見つけられたのか、「○○○○オッタ、マエダ」という電報が寮母さん(住職の奥さん)のところに届き、みな安心することができた。虱がわいて児童に拡がっていた。身に覚えがないと信じていた僕もみんなの前で下着を脱いでみると果たして虱が出てきた。仲間のシャツ、パンツはお寺の大きな窯で茹でられることになった。両方の親指の爪で卵や虫をプツンと潰したりが上手になったが、下着の裏側や親が編んだ毛糸シャツの網目ごとに産みつけられている卵には往生した。
親の面会があった児童は、仲間から羨ましがられた。面会の時に貰ったお金で疎開の児童はその頃外で食べ物を買える店が見つけられず、ひもじさ凌ぎに薬局店で噛みでのあるワカモト、ビオフェルミンなどの消化剤の錠剤を買ってきて、それを噛み飢えを凌いだ気になっていた。錠剤用のガラスびんは、取り集めた虱の容器となった。それまで親の面会がなかった僕は、自分はホン子(実の子)ではないのでは、と葉書きに書いたのを受け取った父は、数日後、汽車の切符の配給を受けて、積雪のことを思い編み上げ靴を履いて会いに来てくれた。持ってきてくれたハッタイ粉や干し芋は有難かった。
その後、戦局は悪化し、姫新線の中心市であるこの津山も到頭敵機の襲来を受けるのではないかということで、疎開児童は一駅西にある院の庄という駅から山奥に入った極楽寺へ再疎開をすることとなった。先生も減って、K先生とだんご鼻のY先生二人となった。K先生のあだ名はカッパで、野外を歩くとき蜂が飛ぶのを見ると、糸をつけ巣を見つけると蜂の子を採って蜂の子めしを作るのだ、などと話してくれた。一年生の時からずっと音楽を受け持ってこられた。極楽寺を下って麓の農協からリヤカーを押して叺(かます)一俵の大麦を大切に寺へ運んだりした。
院の庄の学校の講堂で兵隊さんの慰問にと二人の生徒が即興で漫才を演じたこともあった。稲刈の頃の一日、疎開児童が村の人家に一夜分宿して腹いっぱい食べさせてもらったことがある。村のUさんの家で牛の肉などが煮込まれ、それをしこたまいただいて泊まった夜中に、食べ過ぎたお腹のものを牛小屋の敷藁の中に吐瀉したのを恥ずかしく覚えている。
極楽寺で風雨の激しい(台風?)翌日には、すぐ下の池のまわりの土に鮒などがあがって腹を見せていた。これがバケツに満ち、みんなで焼いて食べる。その時は骨も目玉も食べつくし、皿の上には何も残らなかった。疎開生活を通じ焼きたての魚を食べたのは、この時だけだったかもしれない。
何となく日本が戦争に負けたらしいと伝わっていたある日、お寺の若様が復員された。予科練からと聞いていた。境内や川原でボールを放り投げたり、捕球を教わっていた。
それからしばらく後のこと、とうとう学童疎開が終わることになった。そして、ある日、疎開の生徒たちは津山駅近くの吉井川の川辺で列車の出発を待っていた。そのとき、五年生になっていた私たちは、もうこれ切り会えないものと思った。津山で撮ったわずかの写真を見せ合っていた生徒たちもいた。
とっくに暗くなって列車が神戸駅に着くと辺りは真暗であった。親の迎えを受けたあと生徒たちはそのまま別れ別れとなった。町は真暗闇で焼跡の地面が拡がっていて、道すがらガスの漏れた匂いが暗闇の中で蘇った。
このような姿で疎開の時は終りとなった。 (弁護士 浦島三郎)
(ニュースレター平成31年春号より)
旧事務所のホワイトビル
昭和が平成に変わった1989年、私は29歳、弁護士3年目で、“独身貴族”を謳歌していました。それから30年、一番の身上の変化は、結婚して、子どもも3人出来たこと。一番上の長男はもう社会人になりました。子を持って初めて分かったことも多いように思います。
そして、弁護士生活は33年目に入りました。平成の30年間は弁護士として過ごしたことになります。初めの頃は、ただひたすら依頼を受けた事件を終わらせるのに四苦八苦でしたが、弁護士という職業を30年以上続けてきて、奥の深い仕事であるとの感がますます強くなっています。
弁護士の仕事は、少々ニヒルな言い方をすれば、人同士の喧嘩の肩代わりという側面もありますが、それだけではつとまらない。その紛争をどのように解決することが、依頼者はもちろん、場合によっては事件の相手方を含めた全ての関係者にとって一番よいのか、そのことを考えていないと、いい仕事はできないように思います。
平成の間に事件の依頼を受けた依頼者の方々もかなりの数になります。事件の依頼を受けるということは、その人の人生になにがしかの関わりをもつということ、事件が解決することにより、その人の人生が良い方向に向かったのであれば、弁護士として喜ばしいことです。
時代はこれから令和に向かいます。新しい時代の到来とともに、法律紛争はますます複雑になることが予想されます。しかし、人と人との関係の基本は変わらないはず。したがって、弁護士に必要とされることの基本も変わらないはずです。気持ちを引き締めて、新しい時代を迎えたいと思います。
(ニュースレター平成31年春号より)
去る4月1日、平成天皇の退位と新天皇の就位に伴う新元号が発表され、5月1日から「令和元年」が始まることとなった。
元来、元号は単なる時間の区切りを表すのではなく、中国の紀元前の前漢時代の武帝が統治の道具として使い始めたもので、わが国も「大化」に始まり、明治以降は「一世一元」の制度として国民統治の機能を果たしてきたが、国民主権の現憲法下においてもその仕組みを維持しつつ、そうした意味合いを払しょくした一定の時の流れいわば「時代」を象徴する道具として活用されている。
公文書では、時の表現として元号が使用され、国際化時代の現代では西暦の表示も併用されている。時の政府の民意無視と復古への憧れが際立つ昨今の政治の流れにおいて、新元号が発祥の時代への里帰りを象徴するものとして利用されないことを強く期待するものである。
さて、そうした意味で、「平成」から「令和」への移行に際し、私たちの事務所の「年輪」を語っておきたい。
私が、事務所創立者の山本治雄先生の事務所に入ったのが、昭和36年(1961)4月、司法研修所を出たばかりの「苗木」であった。修習の頃、弁護教官から、アメリカの弁護士の理想的なモデルとして、「仕事は自由に、暮らしは不自由ではないが、莫大な遺産は残さない」と聞かされたことがあり、これをモットーとして出発して以来、樹齢58年の年輪を数えた。元号を適用すると、昭和時代28年、平成時代30年となる。
思えば、高度成長期からバブル崩壊の前半期から停滞と格差拡大、分断の後半期に分かれるが、昭和時代には、昭和43年(1968)から辻公雄弁護士、同50年(1975)から三木俊博弁護士、同56年(1981)から河村利行弁護士が、それぞれ6,7年間事務所に在籍し、また昭和62年(1987)から後半の平成時代30年間を井奥圭介弁護士が事務所を支えてくれた。そして、大学駒場寮で同室であった浦島三郎元裁判官が平成18年(2006)に入所し現在に至る。
いずれの弁護士も個性豊かで、理論派と実践派という傾向の違いはあっても、自由闊達な仕事ぶり、徒に金銭欲に走らない事件処理や弁護士会活動など社会的活動を通じて、事務所の年輪だけでなく姿形のよさを保持してくれたことに感謝したい。
これから始まる「令和」の時代に、果たして事務所の年輪と姿はどのようになるのか、私も生涯現役の覚悟で努力を重ねたいと念じている。
(ニュースレター平成31年春号より)
事務所のこと | 2019年4月24日
こんにちは!相続アドバイザーでニュースレター担当の赤澤秀行です。
今年の夏に創刊しました弊事務所のニュースレター「事務所だより」、平成のうちに第3号をと、いうことで準備してきましたが、本日なんとか無事に平成最終号を発送することができました。
これまで当事務所とご縁のあった方々にお送りしております(うちに来てないよ、という方はどうぞご一報ください!)。
今号を最後に(終わりませんよ!)、夏の令和第1号からは紙面を新たに刷新する予定です。お役立ち記事や、楽しい企画を考えていますので、乞うご期待。
目標の10号まであと7号。次回は令和元年残暑にお送りする予定です!
投稿なども受け付けておりますので、今後とも宜しくお願いいたします!(*^^*)
日々の雑感 | 2019年4月4日
こんにちは!相続アドバイザーの赤澤秀行です。
今月1日に、ようやく新元号が発表されましたね!
令和(れいわ)
当事務所でも早速令和に対応しました^ – ^
「令」というと、上から下への命令、というニュアンスを感じる人が多いと思いますし、実際ちょっと違和感を感じた人も多いようです。
ただ、「令」には「律令」とか「法令」とか「政令」のように、「おきて」「きまりごと」すなわち「法」そのものを表す意味もあります。
つまり、「令和」=法のもとの平和。秩序ある調和。(←法律事務所的解釈^ ^)
なので、英BBCが訳した「order and harmony = 秩序と調和」というのはあながち間違いではないような気がしますし、それでいいような気もします(BBCがどういう意味で使ったのかはわかりませんが)。
政府は「beautiful harmony ですよ~!」と海外への印象づけに躍起になってますので^^;、そのうちその解釈が浸透していくのかもしれませんけど。
いずれにせよ、いい時代になって欲しいですね!
日々の雑感 | 2019年3月4日
もう数十年前、高度経済成長が盛期に入る少し前で、国内でも地方の端の地域ではその潤いがまだ行きわたってなく農業も担い手がそれほど老人化していない頃のこと。申立人(訴訟では原告)は二児の母親で、相手方(被告に相当する)は申立人の夫である。まだ幼い二児は父親である相手方とその母(祖母)のもとで養育されている。これは裁判官として私が担当した離婚調停での一期日のことである。
申立人は九州の遠く離れた実家で父親と暮らしている。相手方は本州のとある町で二児とその祖母らと生活している。調停の期日はこの町に所在する家庭裁判所支部で開かれた。
しかし、この日に指定された調停期日の時刻に相手方は出頭しなかった。種々の理由があるのか不出頭の意向は強いようである。このままでは離婚を求める調停は、当事者である相手方の不出頭を理由に不調となる他はない。そうなれば申立人が今後は原告となり改めて離婚を求める裁判(離婚訴訟)提起しなければならなくなる。
申立人から聞くところでは、申立人は調停期日への出頭のため九州での辺境の土地から列車や航空機を乗り継いで来たもので、収穫した米の一俵を売って旅費を捻出したようである。かくなる上は何とか相手方と協議し同意を得て調停による離婚を成立させることができないか、私の苦慮が始まった。
ふとひらめいたのは、出頭しない相手方の住居へ申立人と一緒に赴き、何とか現地調停を試みる途が少しは残されていないかということであった。ここで私は、経験豊かな家事事件書記官の助力を得て、相手方の自宅を急遽訪れる方法を取ることに踏み切った。こうなると申立人を伴って相手方の住まいに上らせて貰えるか否かが、最初の関門となる。
途次の天候にも恵まれてか、相手方の家族へ礼をつくしたうえ、ようやく申立人・書記官を同道し相手方の家庭に上げて貰うことができた。相手方の母親(姑さん)の種々の不満と意見も聞かせて貰うことができたうえ、申立人と相手方とはその場で話し合い、とうとう調停離婚の成立に漕ぎつけるに至った。相手方の家庭でそれまでどおり二児が養育されるという現地調停による離婚の成立であった(幼く小さい二人の幼児は、両親が「離婚」することの意味も、自分の未来がどうなるかということも、知り理解すること自体できない)。
日没にはまだ遠い午後の一刻、私たちと申立人はタクシーに乗り込んだ。本能的に産みの母との別離を悟ったのであろうか、幼い二児は高く手を挙げて並び、母親が遠くへ去ってゆくのを全身でこれを受けとめ、両手を振っていた。 (弁護士 浦島三郎)
(ニュースレター2018年創刊号より)
私が当事務所に入所したのは、かれこれ30年以上前になりますが、入所早々の頃に、赤沢先生から囲碁の教則本を渡され、読むように勧められたことを覚えています。赤沢先生は、当然、私が、それに従い、囲碁を習い始めるものと期待されていたと思いますが、実際は、その期待に見事に反し、これまで、囲碁とは無縁の人生を歩んできました。それが、この度、事務所の企画で、個人的には老後も楽しめる趣味をもちたいという動機と相まって、赤沢先生から、月に一回のペースで囲碁を教えていただくことになり、58歳にして囲碁を始めました。
始めるまでは、正直、白石と黒石を並べるだけの単調なゲームのどこが面白いのかと思っていましたが(それが私がこれまで囲碁を始めなかった主な理由でした)、ルールが分かってくるにつれて、単純なだけに、かえって打ち手の自由な発想が許され、だんだんと面白いものだと思うようになってきました。
赤沢先生の熱心な指導で上達も早い!?
今は、仕事帰りの電車の中で、携帯のタブレットに入れた囲碁のアプリを相手に腕をみがいており、9路盤で15級相当のAI相手に勝ち負け合い相半ばしている状況です。今後の進歩に乞うご期待!
(ニュースレター2018年新年号より)